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進化し続ける銀座の真髄: 伝統と革新の共存


ワンスアラウンド株式会社 顧問

馬場 英喜

日本を代表する繁華街へと発展した「銀座」
=第2弾:バブル崩壊が海外ブランド進出へと繋がる= 


前回は、江戸・明治・大正・昭和を経て、大きな災害に遭遇するたびに街機能がグレードアップした「銀座」について、東京大空襲で多くの家屋が焼失した1945年(昭和20年)までを報告しました。
今回は、戦後「銀座」が再び復活を遂げ、今日まで歩んできた歴史と変遷について報告します。

<米軍相手の繁華街として再スタート>

1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎え、銀座は再び復活を遂げます。
東京大空襲で多くの家屋が焼失した中、銀座7丁目・8丁目などがその難を逃れましたが、9月8日に「連合国占領軍(GHQ)」のジープや輸送車、戦車が延々と連なって銀座を通り、人々を驚かせます。

GHQは有楽町の「第一生命保険本社」に本部事務所を構え、銀座4丁目の「服部時計店(現:和光)」や、3丁目の「松屋」などを接収して、「PX(米軍専用売店)」や将校クラブとしました。


他にも焼け残ったビルが世界各国から参入してきた企業や組織の事務所として使用され、銀座は米軍相手の繁華街として再スタートを切りました。

そんな中、銀座の商店街の人々は、一刻も早く街に賑わいを取り戻そうと、自ら復興計画を立て、終戦翌年の1946年4月に「銀座復興祭」を開催します。
この時には銀座通りの商店180軒が、再開店したと言われています。

一方、銀座通りには露店が軒を並べ、米軍相手のお土産、衣服、食べ物、子供のおもちゃなどを売っていました。露店は銀座商業の復興に大きな役割を果たし、銀座の風物詩として語られていますが、1951年「GHQ」の命令によって廃止されました。そして、サンフランシスコ講和条約が締結され、翌1952年(昭和27年)4月、「服部時計店」「松屋」などが返還されて、ようやく本格的な復興が始まりました。



<交通網の発達が街を変える>

■舟運から高速道路へ 

焼け野原となった銀座は、商人たちによって逞しく復興する一方、あらゆる所に空襲による瓦礫が積み重なった状態でしたので、昭和通りの分離帯等には延々と瓦礫の山が続き、すでに大量のごみが投げこまれて汚れていた三十間堀川は埋め立ててしまうことにしました。


銀座ばかりでなく、東京の街全体が、水辺の街、舟運の街でしたが、時代の流れは経済成長と自動車中心の交通へと邁進しつつありました。
そんな中、銀座の堀を埋め立てることに反対する人もいましたが、これを機に銀座の周囲を取り囲んでいたすべての川は、埋め立てられていきます。


そして銀座は、川に囲まれた街から高速道路に囲まれた街になりました。
今も、「京橋、新橋、数寄屋橋、三原橋」を始め、交差点の名に、橋の名前が残っています。また橋のたもとにあった橋詰公園の名残りは、銀座に数少ない緑を提供しています。


■都電の街から地下鉄の街へ

1955年(昭和30年)代までは、都電線路が都内に縦横にめぐらされ、貴重な足となっていましたが、外堀通りの埋め立てと並行して、新しい地下鉄工事が進められました。


1934年(昭和9年)に開業していた営団・銀座線銀座駅に加えて、1957年(昭和32年)に営団・丸ノ内線西銀座駅(現:銀座駅)、1963年(昭和38年)に都営・浅草線東銀座駅、1964年(昭和39年)に営団・日比谷線銀座駅が次々と開業しました。東銀座駅から西銀座駅までの地下道が開通したのもこの時です。

そんな中、自動車交通が発達し、自動車台数が増加するにつれ、都電はかえって渋滞のもととなり、1967年(昭和42年)には、ついに都電銀座線など6系統が廃止され、12月9日の都電最後の夜、銀座通りでは一斉に人が繰り出し、都電との別れを惜しみました。





そして、1974年(昭和49年)営団・有楽町線銀座一丁目駅が開業し、現在銀座には5本の地下鉄が交錯しています。
2021年には銀座5駅で一日25万人が乗降する地下鉄の街となっています。


■銀座大通り大改修と銀座祭り、歩行者天国

都電の廃止を機に、建設省は銀座大通りの大改修を計画しました。


そのコンセプトは「大通り上の付属物を出来る限り排除し、来るべき自動車社会に相応しい見通しの良い近代的な通りにする」というものです。


具体的には、電柱と電線をなくし、ガス、水道、電話線とともに地下に新設する共同溝に収め、そして歩道幅を広げ、都電のレールの敷石に使われていた御影石を転用して御影石舗装とし、街路樹や街路灯の見直し・変更を実施しました。


完成した昭和43年は、明治維新から、ちょうど百年目にあたり、10月には「明治百年記念大銀座祭」が開催されました。この時実施されたパレードは、その後も名物行事として定着し、1999年(平成11年)まで続けられました。

また、1970年(昭和45年)8月2日には、銀座通りで初めての「歩行者天国」が実施され、休日の銀座に定着しました。
当初は「銀座」のほかに「新宿」、「池袋」、「浅草」の4カ所で実施されましたが、現在も続いているのは「銀座」だけです。


<経済成長そしてオイルショック>

1964年(昭和39年)、東京オリンピック開催に合わせて東京のインフラ整備が急速に進められ、1969年(昭和44年)には日本の経済力はGNP世界第二位になるほどに日本は戦後の経済成長を突っ走ります。
その波に乗り昭和30年代から40年代前半にかけての銀座は、前述の通り、堀の埋め立て、高速道路建設、地下鉄整備、都電撤去、銀座通りの改修、新しい祭りの開始等々、大きな変貌を遂げました。


戦後すぐに建てられた銀座の木造建築の建物は、1966年(昭和41年)竣工の数寄屋橋交差点「ソニービル」をはじめ、4丁目交差点「三愛ビル」「東芝ビル」「銀座ライオンビル」「名鉄メルサビル」「資生堂ザ・ギンザ」など話題のビルが次々と建て変わり大型化しました。
しかし、その繁栄も1973年(昭和48年)の「オイルショック」で頓挫します。
銀座の百貨店は営業時間を短縮し、ついには繁華街の象徴であるネオンが消えてしまいました。


<バブル期の銀座>

「オイルショック」後、再び経済は盛り返し、1985年(昭和60年)代には「バブル経済」と呼ばれる空前の好景気が訪れました。銀座でも大きな金額が動く商売などの話やタクシー待ちの行列等、エピソードには事欠かないものの、実際には、街の変化は別のところにありました。銀座通りへの数々の金融機関の出店です。


歴史を振り返ると、銀座通りにはその時代で最も勢いのある商売の店が出店していました。例えば、明治煉瓦街の頃は西欧の事物を扱う店舗や昭和初期のカフェ等です。それと同様に、「バブル期」には、銀行、証券会社などが、銀座通りに各行とも複数の支店を出店したのです。


しかし、金融機関はショッピングを楽しむところではなく、しかも銀座通りに多くのお客様が訪れる午後3時には閉店してしまうため、街の賑わいづくりという点では、あまり望ましいとは言えない状態でした。
しかし、もともと高価であった銀座の地価があまりにも高騰したため、流通することはなく、街の姿が大きく変わることはなかったのです。



<バブル崩壊と規制緩和>

バブル崩壊後、銀座に土地を持つ人たちは、自らの商売とは全く関係のない高すぎる地価の評価による税金に苦しめられました。


また、戦後すぐに建てられた多くのビルは、当時の建築基準法で高さが31mに制限されていたため、統一された景観を形成しており、建て替えると、新規の建物の有効面積が減少するため、建て替えが出来ずに老朽化が進んでいきました。


そこで、銀座通り連合会をはじめとする銀座の人たちは、中央区、東京都、建設省に対して、容積率を丸の内並みにしてもらう陳情を開始しました。
それに対し、国は1997年に「都心中心地における容積率の緩和」を打ち出したので、銀座は中央区と協議の上、地区計画「銀座ルール」を定め、「銀座通り沿いの建物の高さは56mとする」と決めました。
併せて、銀座らしい品位があるセンスの良い景観を実現するために「銀座デザイン協議会」を設立して銀座らしさを保ち続けます。


<山手線西側の副都心・鉄道ターミナル駅の発展>

そんな銀座に暗い影が忍び寄りつつありました。
明治維新以来、銀座の主要顧客であり、銀座の個性的文化を創ってきたのは地方から上京して山手地区に住むホワイトカラー層でしたが、関東大震災以降、山手の住宅街は、東急電鉄や小田急電鉄、西武鉄道の沿線開発により、武蔵野台地を急速に西へ西へと広がっていきました。


渋谷、新宿、池袋に代表される副都心には、鉄道ターミナル繁華街が生まれ、山手線よりはるか西に住むようになったホワイトカラー層にとって、銀座は少し遠い繁華街になりつつありました。


1964年には、当時の流行を引っ張った「みゆき族」と呼ばれる若者が出現しましたが、1970年の歩行者天国開始や、1971年のマクドナルド1号店開店などを最後に、東京の繁華街の文化的中心としての「銀座」は、山手在住の若者文化の中心としての地位を「渋谷」「原宿」に、総合的な筆頭繁華街の地位は、「新宿」に譲り、東京東部の一繁華街に落ち着きつつありました。                 


<海外高級ブランドの進出>

1990年代後半になると、東京郊外の西への拡張が一段落し、都心開発ブームが起きて、都心としての銀座が再び脚光を浴びるようになります。


銀座の各所で再開発が進み、ヨーロッパの高級ブランド各社も銀座の持つブランド性に再び着目するようになった結果、当初は並木通りを中心として、次第に晴海通り、銀座通り(中央通り)へと、海外の高級ブランド店が軒を連ねるようになりました。


高級ブランドの出店先は、バブル期に出店拡大した金融機関が1997年の山一証券に端を発した破綻により、多くの支店が閉店した跡地でした。


2008年9月にアメリカで起きたリーマンショックを端とする経済危機の煽りで、
海外ブランドの閉鎖もありましたが、銀座通りマロニエ通りがクロスする銀座2丁目交差点には、現在は 「シャネル」 「カルティエ」 「ブルガリ」「ルイヴィトン」が顔を揃えています。



その後は、「ユニクロ」「H&M」等のファストファッション専門店やドラッグショップが進出して様変わりし、2013年頃からは、中国はじめアジア各国からのインバウンド訪日が増加しました。
2020年春からのコロナウイルスの流行で訪日客は押さえられましたが、2023年5月からの5類への移行に伴い、再び賑いを取り戻しています。


みえてきたこと。わかったこと

ひと味違う街・銀座の歴史は「伝統と革新の両立」

全国に300ほどある「○○銀座」の頂点である東京「銀座」は、幾度の災害に見舞われながら、そのたびに復興し、今では世界でも指折りの商業地として発展し、様々な大企業や高級ブランドが出店しています。

バブル崩壊後、金融機関跡地に展開した高級ブランドショップは、商品のみならず種々のサービスを通して、ブランド固有の新たなコンセプトを強く発信していますが、その高級感は上質を誇りとする「銀座」には必要な要素であり、大きな刺激となっています。

一方で、「銀座」には、脈々と受け継がれて来た歴史を誇る趣のある企業や店舗が、長きに渡り「銀座」にプライドをかけてお店を構えています。

今回の取材を通して、高いレベルで伝統を重んじながら、改革の歩みを止めずに発展を続けるこの「銀座」という街には、「二つの属性」=「伝統と革新」が見事に共存していることがわかりました。

そして、今後も「銀座」としてのアイデンティティを保ちながら更に発展するために、世界の一流品と最高レベルのセンスを競いつつ、日本の美意識を加えた商品群や、最高度の味覚を活かした多様な食文化を誇る第一級の存在感を保ち続けて欲しいと思います。

そのためには、日本で創造された特有の商品やサービスの発信拠点が、もっと進出してきても良いのではないでしょうか?
これらは、「銀座」という街を通して、単なる商品やサービスというだけでは終わらない、生活の高付加価値化を人々にもたらすはずです。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回で私のレポートは一旦終了させて頂きます。
長い間ご愛読いただきました皆様、どうもありがとうございました。

馬場 英喜
馬場 英喜
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