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100年に一度の大改造『渋谷再開発』



100年に一度の大改造『渋谷再開発』
~複雑化した渋谷駅周辺の歴史と経緯~


10月14日の鉄道記念日、鉄道開業150周年の節目を迎え、全国各地で記念イベントが開催されましたが、 明治時代に入ってからの鉄道網整備は、全国各地の駅周辺の発展を支えた事業であり、 まちの発展に大きな役割を果たしていることを改めて再確認しました。

前回は、山手線「新宿駅」及び周辺の成り立ちと経緯、そして近未来の再開発について、 2回にわたり報告しましたが、今回は「渋谷駅」と駅周辺について、2回に分けて報告します。

2つの川筋が作り出した凹凸地帯の谷底にある「渋谷」

渋谷は武蔵野台地の南端に位置し、南北にかけて 渋谷駅を中心に新宿御苑の池を源流とする「渋谷川」と、 代々木八幡方面から流れる「宇田川」の 2つの川筋の間にある「Y字型の谷」にあたり、 東西では、赤坂から青山を抜けて 宮益坂を下ると大きな谷にある渋谷駅に至り、 今のスクランブル交差点を通り過ぎると道玄坂へ上る道となります。
ここは江戸時代から「俗称:大山道」として知られ、国道246号線の原形となっていますが、 青山方面から地下を走って来た「銀座線」の地下鉄が突如、 地上に顔を出す風景を目にするのは、渋谷駅は巨大な 「すり鉢状の地形の底」にあるからです。


現在、原宿の明治通りから表参道側に一本入った裏に、 「キャットストリート(正式名:旧渋谷川遊歩道)」があります。
この原宿と渋谷を繋ぐ約1kmの遊歩道は、南北に流れる渋谷川に蓋をして暗

渠(あんきょ)化により出来た遊歩道です。
(*暗渠化:川を地下に埋めること)

下流の渋谷駅付近の直下は、雨水や下水を流す河川への整備とともに暗渠化されていますが、 2018年に開業した「渋谷ストリーム」横の稲荷橋の先から顔を出した川の流れを見ると、 渋谷川の存在を改めて知ることが出来ます。

渋谷の谷地を大きく変えた鉄道開業


1885年(明治18年)、今の山手線の前身となる赤羽~品川間の「品川線」が 渋谷川と並行するように敷かれ、渋谷駅が開業しました。
当初の渋谷駅は今より300mほど品川寄りにありましたが、大正時代に高架化された時に、 現在の位置に移転しています。

昭和初期の渋谷    東横線、井の頭線、銀座線の乗り入れ

次に開業した鉄道は、1907年(明治40年)に渋谷から二子玉川間で開業した 「玉川電気鉄道(玉電)」です。旧大山街道(現在の玉川通り)上を走り、 当初は多摩川で採取される砂利輸送の貨物主体の鉄道で、業績は厳しい状況が続きましたが、 大きく好転したのは、沿線の住宅開発拡大と1923年の関東大震災後の復興工事の砂利需要でした。

その後は旅客輸送へと軸足を移し、1933年(昭和8年)に渋谷駅に 「玉電ビル」を計画しましたが、 「東京横浜電鉄(現在の東急)」の玉電吸収合併に伴い、 1938年に当初計画の7階建ての見直しを迫られ、東急が4階建ての 「玉電ビル」を開業しました。 翌年に玉電(東急玉川線)も2階に乗り入れています。
その後、路面電車の玉電は30年に亘り走り続けましたが、自動車の普及による渋滞が激しくなり、 惜しまれながら1969年(昭和44年)に廃止されました。

一方、「東京横浜電鉄(現在の東急)」は、 1927年(昭和2年)に東横線渋谷駅が開業し、1933年(昭和8年)には 「帝都電鉄渋谷線(現在の京王井の頭線)」が開業し、 1938年(昭和13年)には「東京高速鉄道(現在の東京メトロ銀座線)」 が乗り入れました。

東急百貨店の前身である「東横百貨店」は、 1934年(昭和9年)に「東横百貨店(東館:地下1階地上7階建)」で創業し、 「東横百貨店西館」は、 前述の「玉電ビル」を活かしつつ4階建てで開業しました。


戦後復興での都市開発   「丘の西武」対「谷の東急」

現代につながる渋谷のまちづくりは、1950年代以降に戦後の復興計画としての 都市整備で進められました。

前述の「玉電ビル」は、1954年(昭和29年)に 5階以上を増築して11階建てとし、新館「東急会館」 (のちの「東急百貨店東横店西館」)に改称して開業。
57年には文化施設の東急文化会館(跡地は現在の「ヒカリエ」)、 65年に「渋谷東急ビル」(のちの「東急プラザ渋谷」、 現在は「渋谷フクラス」)、 67年に渋谷駅から徒歩5分の地に、「東急百貨店本店」を開業し 84年に大改装、1989年(平成元年)には隣接する複合文化施設 「bunkamura」開業と、 東急グループの主要施設が駅周辺に続々と開業し、渋谷は「東急のまち」へと発展します。

1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、代々木にあった在日米軍施設 「ワシントンハイツ」の跡地に主要施設が設けられ、 オリンピック後はNHK放送センターなどを中心に渋谷の文化的拠点となりました。
その後、西武・セゾングループが、 1968年に「西武百貨店渋谷店」を開業し、 80年代後半には、百貨店の「シード館」「ロフト館」を開業させています。

ファッションの風が流れ、若者文化や流行の発信地となった
「渋谷PARCO」と「SHIBUYA109」


70年代に入り、先ず大きなインパクトを与えたのは、1973年(昭和48年)開業の 「渋谷パルコ」です。駅から少し離れた宇田川と渋谷川に 挟まれた丘の上のNHKに通じる公園通りに開業し、 2年後に「パルコパート2」を開業します。
テナントにはDC(デザイナーズ&キャラクターズ)ブランドを導入し、 ファッションとカルチャーへの強い思い入れが若者に響き、 「渋谷=流行の発信地」のイメージが全国に広まりました。
また、「公園通り」「スペイン坂」など新しいネーミングが生まれ、 坂道や路地に出店した若者向けの中小ショップ群が、回遊性を持ったファッションゾーンとなり、 起伏の多い渋谷ならではの魅力となりました。

一方、東急グループは、1979年(昭和54年)に東急「渋谷109」を開業。
開業時は20~30代女性向けの商品を扱うファションビルでしたが、バブル崩壊を機に方針を転換し、 10代後半からの女性向けテナントを充実させました。
「マルキュー」の愛称で呼ばれ、 そこで働くカリスマ店員に会うために全国の女子高生が訪れる光景に遭遇しました。
こうして1990年代の渋谷は、「若者のまち」として成長しました。

渋谷駅中心に「大人のまち」への開発が進行中

2000年代に入ると、渋谷では若者離れが進みましたが、初頭には若者文化と結び付く形で、 若手起業家のITベンチャー企業が集まり、「ITエンジニアのまち」という イメージが強くなりました。

ただ、渋谷は中小規模のオフィスが多く、企業規模が大きくなると、大きなオフィスを求めて渋谷を離れていましたので、 「東急グループ」は、こうした企業の流出を防ぐため、渋谷の再開発では、 オフィス物件の充実を図り、「大人のまち」への開発を進行中です。


わかったこと。見えてきたこと。

再開発によって、高度成長期に複雑化した渋谷駅周辺

渋谷駅周辺は、前述した立地条件ゆえに、先人達が大胆なまちづくりに向けての「再開発」 を続けて来ましたが、その中心には「東急」の存在が大きく、 東横線、玉川線沿線の開発が渋谷駅の発達をさらに促進させ、 渋谷をきわめてユニークなまちへと作り替えて来ました。

かつては、東京でも代表的な地域とは言い難かった渋谷が、 今や国際的に知られるまちとなった理由は、そこにあるのではないでしょうか?

渋谷周辺エリアを地上で眺めると、南北には、高架の「JR山手線・埼京線」、 東西には、3階レベルに「京王井の頭線」と 「メトロ銀座線」
そしてJRの高架の上に「首都高速3号線」が走り、 「6つに分断」されています。



縦動線では、地上は「京王井の頭線」「メトロ銀座線」の3階から、 地下は「東横線」と「メトロ副都心」開通で 地下5階までの「上下8階層」へと広がり、より立体的な移動が求められています。

このように、渋谷は地形の高低差があるだけではなく、鉄道や道路によって6つに分断され、 6つの地区を互いに行き来することが難しい環境となっていました。

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さいごに ―100年に一度の大改造の後半向けて―


「100年に一度」と言われる渋谷駅中心地区の再開発は、 現在、2027年の完成に向けて後半戦に入っています。

世界有数の巨大ターミナルである渋谷駅は、以下のような多くの課題を抱え、大規模な改良を必要としています。


(1)安全性、(2)利便性、(3)快適性、(4)線路と道路の分断

しかし、狭い空間の中に複数の鉄道事業者の施設と駅ビル、公共施設が複雑かつ重層的に配置され、 その中を暗渠化された渋谷川が流れるという立体的なパズルのような構造が再開発を阻んでいました。

今回は、渋谷駅及び周辺エリアの変化や変遷について書いてきましたが、
複雑怪奇な構造を持つ渋谷駅の大規模再開発は、現在進行中です。

次回は、再開発計画を可能にした経緯や2027年度にむけての新たな姿について書いてみたいと思います。

馬場 英喜
馬場 英喜
ワンスアラウンド株式会社 顧問

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