新たなまちづくりに挑む「新宿」
未来に向け、新たなまちづくりに挑む「新宿」
~乗降客数・開業時35人/日が現在350万人/日へ~
前回は、明治時代に入り開業した山手線について、当初は環状線ではなく、 横浜や京浜工業地帯と北関東や常磐地方、東北地方とを繋ぐ貨物線としての役割でしたが、 山手線の西側エリア「渋谷・新宿・池袋」駅が、私鉄を含めた沿線開発の進展とともに、 百貨店や駅ビルを中心とした拠点ターミナル駅の役割を果たしたと報告しました。
そこで、拠点ターミナル駅「新宿」を取り上げ、今回から2回に分けて報告します。
1回目は、宿場町から鉄道開通に伴う駅を中心としたまちづくりと西口側再開発においての 都庁移転までの取り組みについて、
2回目は、駅周辺や駅ビルが開業して約半世紀が経ち、未来に向けてスタートした新たな計画について、 その内容を報告します。
街の顔が大きく異なる新宿駅 (東口側と西口側)現状の新宿駅は、駅前から拡がる街の様相が東口と 西口で大きく異なります。 江戸時代までは農村地帯だった新宿駅西側。
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画期的な「立体的駅前広場」が完成
この新宿駅西口広場整備計画では、駅前の交通処理能力を大きく高めて高度利用するために、 世界にも類のない「立体的駅前広場」が計画されました。
歩行者と車を分離しつつ、ターミナルとして効率的な移動・連絡を可能にするために、 地上と地下の2層構造とし、更にペデストリアンデッキを加えて3層構造となる駅前広場としました。 (現在もそのまま見る事が出来ます)
具体的には、
地上は、主にバス乗り場として一般の自動車の交通路。
地下広場は、各鉄道やタクシーを含む交通機関を利用する歩行者の移動スペースと、 新たな業務地区や駅前、駅地下などの商業施設との連絡通路。
<この地下広場内にも自動車が入るという画期的な計画でした>
地上2階のペデストリアンデッキは歩行者の流れを円滑にし、
更に3層構造の地下2階部分には、公共駐車場がつくられています。
西口広場開発を担ったのは
1961年(昭和36年)には、国鉄(現:JR)・小田急・京王・営団地下鉄(現:メトロ)間で 4者協定を締結し、複雑な土地の権利関係を障害とせずに、都や建設会社を含めて公民一体となった体制を確立させて、 西口広場開発における課題を解決しました。
これは、当時100万人を超す乗降客が利用する新宿駅西口において、 各交通機関利用者の円滑な相互移動のためには、各事業者が共有するコンコースを協力してつくる必要があったからです。
そして、東京都は、「新宿副都心建設公社」が持つ西口広場建設の特許を 小田急電鉄に与えました。
駅前開発等は公共事業ですが、民間事業者である小田急電鉄が担った背景には、 他の鉄道会社が東口に力点を置いていましたが、新宿駅西口に注目して、 1927年に新宿~小田原間を開業させ、沿線開発を実施していたことに加えて、 副都心計画に先立ち1951年(昭和26年)に「西口地下駐車場と地下道の建設許可」を 都に申請しており、1966年(昭和41年)に完成した 現小田急百貨店本館と西口広場開発構想を既に進めていたという特殊事情がありました。
西口街区(浄水場跡地)の最後の仕上げ
浄水場は1965年(昭和40年)に廃止され、3年後には街区造成工事が完了し、 併せて新宿中央公園が開園しましたが、造成された事業用地は11街区に分けられ、 入札で順次民間事業者に売却されました。
超高層オフィス街の開発や運用は、小田急、京王、住友不動産、第一生命、三井不動産によって、 「新宿副都心協議会」が発足し、 これに街区を購入した所有企業が加わって構成され、新都心の街づくりを推進しました。
西新宿地区第1号は、1971年(昭和46年)に「京王プラザホテル」(47階建、高さ170m)が開業し、1974年には、新宿住友ビル、旧KDDビル、新宿三井ビルが、76年には安田海上火災ビルなど、1970年代から80年代にかけて次々と超高層ビルが建設され、街区外の周辺にも再開発が波及し、隣接する南側にはワシントンホテル、北側にはヒルトンホテルが開業しています。
そして、最後まで着工されずに残っていた3つの街区に東京都庁舎が建設され、 1990年(平成2年)に有楽町から移転したことで、現在の西新宿の姿が出来上がりました。
わかったこと。見えてきたこと。
西口開発のモデルは88年前にあった1964年に開催された東京五輪を機に都市インフラの整備が始まり、 東京都は1960年(昭和35年)に、 「新宿副都心計画」を決定し、 新宿駅西口開発を進めましたが、この新宿駅西口再開発は、 戦前の1934年(昭和9年)に内務省の委員会により 「新宿駅付近広場及び街路計画」として 決定されていたものがベースになっていることを知りました。
河村茂氏の著書「新宿街づくり物語」では、 この計画は、広場、街路と建築敷地造成を含んだ近代的な総合都市開発事業であり、 ■鉄道施設、駅前広場、そして街路の一体計画をする ・・・総合的な交通施設整備計画であった。 ■地下に鉄道の総合ターミナル機能をつくるとともに、これと連絡を良くする ために、地上、地下に立体的な交通広場を配置する ・・・新宿の都市交通問題の一挙解決を目指す画期的な計画であった。 ■都市基盤施行整備と同時に建築物のコントロール(形態規制・高度利用)も 一体的に行う。 ・・・新しいタイプの都市計画事業計画であった。 と記されています。 この計画は、戦争で実現出来ませんでしたが、約90年前に立案された計画とは思えない先進性に富み、 戦後の新宿副都心計画のルーツとされ、大きな影響を与えていたのです。 |
さいごに ―さらに未来へ向けて―
新宿駅と駅周辺は、今また、大きな変化の途上にいます。
宿場町「内藤新宿」から発展して、 商業で賑わう新宿駅東口地区、 様々な娯楽施設が集積する歌舞伎町地区、 高層ビルが立ち並び、最後に都庁が移転してから32年経つ西新宿地区、 近年は国鉄跡地の開発によって生まれた新宿駅南口周辺、 そして緑が広がる新宿御苑など、 様々な要素で構成されている街「新宿」の、その中心に位置しているのが、 一日約350万人の乗降客数を誇る「世界一の巨大ターミナル新宿駅」です。
そして、駅周辺の建物や新宿駅の改良とともに建設された駅ビルは、開業以来約半世紀が経ち、 いよいよ機能更新の時期を迎えています。
ターミナルの課題としては、
・駅機能、駅ビルの老朽化
・駅構造が複雑で分かりにくい
・駅とまち、まちとまちの間が移動しにくい
・歩行者が滞留できる空間が不足
等が挙げられています。
今回は、新宿駅及び周辺エリアの変化や変遷について書いてきましたが、 次回は、1920年代後半から1940年代を見据えた、 新たな開発計画とその内容や取組みについて書いてみたいと思います。