商業施設が行うべき「集める」から「集まる」への転換
駅ビル型ショッピングセンターの未来像
鉄道沿線開発のまちづくりにおいては、鉄道会社は大きな役割を果たしており、ともに大きく成長してきました。 前回は民間鉄道の歴史と取り組み内容につきまして、東急グループ中心にスポットを合わせながら報告しましたが、
今回は、国鉄(現在:JR)の「鉄道駅舎と商業」の歴史と取り組み内容について報告します。
我が国で初めて鉄道が営業を開始したのは、今から150年前の1872年(明治5年)の新橋―横浜駅間ですが、 駅利用者に対して構内での新聞販売、売店の出店や食堂を営業したいという人が現れ、それが認められました。
鉄道駅と商業は当初から相性が良かったのだと思いますが、その後の鉄道網の整備・拡大は貨物物流だけでなく、 人の流れや、街の姿を大きく変えました。
東京では、1923年(大正12年)の関東大震災により市街地が大きな被害を受け、 当時は郊外であった渋谷や、更に西の鉄道沿線への転居が一気に進みました。 それにより郊外の新興住宅地に住む人たちは鉄道を利用して、都心に通勤や買い物に出かけるようになり、 駅は人が行き交うまちの中心的な存在となりました。
西の大阪では、鉄道ターミナルでの商業の可能性を見出していたのは、 前回も報告した阪急グループの創始者 小林一三氏でした。
具体的には1929年(昭和4年)に鉄道会社直営のターミナルデパートとして、 阪急百貨店(梅田店)をオープンさせています。
被災した「まちの中心地=国鉄の駅」の復興に向けて戦後は、全国の国鉄主要駅に「民衆駅(ビル)」と呼ばれる商業施設が誕生しました。 「民衆駅」とは、鉄道の駅舎内に各種の小売店、飲食店などが入居する民衆施設(商業施設)を 併設したもので、国鉄という公共企業が開発を主導しながら、そこに民間の資本が導入され、 そこで多数の民間の商店が営業したことに特徴があります。 空襲で被災した全国の大都市では、復興を進めるうえで、まちの中心に位置し、 物流の拠点であり、経済の要でものある「国鉄の駅」のいち早い復興が求められました。 線路や駅舎などに甚大な被害を受け、被災した国鉄駅は全国で130超と言われています。 関東での被災駅は、東京駅丸の内本屋をはじめ赤羽、池袋、蒲田、川崎、八王子、 近郊では宇都宮、水戸、日立等、大都市の中核となっている都市が多く、 地域の人々や地域経済への影響が出て、鉄道駅の復旧が急がれました。 運輸省は1945年(昭和20年)9月に「鉄道復興五カ年計画」を作成し、 駅舎の復旧方針を示した「停車場復興基本方針」では、 駅施設以外に商店などの利便施設を併設した駅本屋を建設する方向性が示されました。 しかし、輸送力を至急回復、向上させるように要請されていた国鉄は、 戦中に傷んだ線路網の修復を進めるのに手一杯で、莫大な費用が必要となる駅舎の再建に回すことが出来る資金は限定的でした。 そのため、苦肉の策として考案されたのが、 1950年代に開発が相次いだ「民衆駅」構想でした。
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「百貨店と民衆駅」に影響を与えた百貨店法制定
前記の池袋駅東側の「東口民衆駅」での百貨店「東京丸物」の導入は、 国鉄にとっては大きな転機となりました。
1953年に運営会社として(株)池袋ステーションビルを設立しましたが、 翌年京都の(株)丸物百貨店が資本参加して出店方針を示すと、 地域の中小小売店から出店反対運動が起きました。この反対運動は、全国的に知られる事となり、 国鉄の駅ビルは地域の合意、協力を得ながら進めることが求められ、その後、地域の有力企業などが出資し、 自治体が申請し、それを国鉄が許可して開発する形がとられました。
そんな中、1956年に百貨店の出店を規制する百貨店法が制定・施行され、 新規出店に対しての風当たりが強くなったことにより、 民衆駅は百貨店に頼らずに有名店や多くの専門店を取り込んだ商業施設にせざるを得なくなりました。
そのことが逆に民衆駅から発展した駅ビルが、 ショッピングセンターとしての性格と魅力を強める事に繋がったと言えるのかも知れません。
悲願だった国鉄出資会社による駅ビル開業
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私が体験したこと。わかったこと。
1950年代からスタートした民衆駅ビルは、国鉄が直接事業運営できないという制約を受けながら、 今日のルミネ・アトレを頂点とした「駅ビル型ショッピングセンター」に 繋がっています。
私がテナント側の開発担当者として体験したこと、教えられたことは、
●駅を劇的に変えた ―「駅ビル開発の3点セット」―
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駅ビル型ショッピングセンターの今後について
駅ビルは、前述の開発の3点セットに則り、原則的には駅改札の外で商業施設を展開して、 「駅ビル型ショッピングセンター」という形態を確立しましたが、 JRへの民営化以降、ICカードのSuica導入に伴い、各駅の構内に新たな区画が生まれ、そこに駅利用者の更なる取り込み施策が深耕しました。
<大宮駅での事例>
・駅改札外では、利用頻度が減った券売機や出入札関係の縮小により生まれた区画や、 東北・上越新幹線の始発駅時代に1階にあった貴賓室などの区画に ルミネが売場を増床しました。
・駅改札内(通称:エキナカ)では、区画を整理して、空間コンセプトを強く意識し、 駅ビル型SCと言われる従来の不動産賃貸業ではなく、小売業の形態を持ちながら、 従来とは違った新しいビジネス分野として、2005年に 「エキュート大宮」を開業しました。
SC&パートナーズ西山社長は、「駅ビルのみならずSCは、エキナカ開業の2005年以降、 同じタイプのSCをつくり続けて15年以上経過しており、 これから新たなイノベーションが求められます。」と語っておられます。
商業施設は、従来は「お客様を集める」ことに注力していましたが、
今後は「お客様が集まる」装置・仕掛けへの転換が求められます。
コロナ禍を経て、お客様の行動が少しづつ都心から郊外へと移行している中、 特に都心型SC(駅ビル含む)では、「この指とまれ!のテーマ性」が 求められているのではないでしょうか?
丸井は現在、SC化へ進化中ですが、「売らない店の面積について、 現状43%を2026年までに70%に高める」と宣言しています。
キーワードは、サスティナブル(持続化)、 サーキュラー(循環させる)、 イベントフル(話題のあるイベント)とし、まさに「この指とまれ!」の提案です。
都心及び郊外拠点ターミナルの駅ビルは、
地域の玄関口の駅として、駅の改札外・内でのワンストップ・ショッピングだけで終えるのではなく、 まちなかと連携することによって、お客様の回遊を促し、便利で楽しいと感じて貰うことがより重要です。
「お客様が集まる装置・仕掛け」を発信していきましょう!