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衰えない銀座の魅力とその秘密


ワンスアラウンド株式会社 顧問
馬場 英喜


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【Market Report  vol.38】

日本を代表する繁華街へと発展した「銀座」
誰もが親しんだあの「お馴染みの味」
発祥地もここ「銀座」でした
  


前回は、江戸時代から明治・大正・昭和・平成を経て、現在に受け継がれている日本の「街(まち)」の原点である東京「日本橋」を、2回にわたって報告しました。


今回は、日本全国には、300ほどの「○○銀座」があると言われていますが、東京「銀座」は、どのようにして日本一の街になることが出来たのか?歩んできた歴史と変遷を2回にわたって報告します。


「銀座」は、日本一のターミナルである東京駅八重洲口には至近であり、徒歩でのアクセスが可能という抜群の立地の良さがあります。
現在は、全国各県のアンテナショップを始め百貨店や有名ブランドが立ち並び、煌びやかに彩られ、日本の中心地としての役割を果たしていますが、この街にも、かつては未開地だった時代がありました。

江戸時代以前、現在の丸の内から日比谷にかけてのこの場所は、「日比谷入江」と呼ばれ海になっており、その東には隅田川の運んできた砂によって「江戸前島」という砂洲が形成され、現在の中央通り付近を尾根筋、銀座・汐留付近を先端としていました。


<江戸時代>
静岡(駿府)より
「銀貨鋳造所(銀座役所)」が移転

1590年(天正18年)、静岡から関東へ領地替えをした徳川家康は、先ずは日本橋周辺を城下町として整備し、1600年(慶長5年)の関ケ原の戦い以降、江戸時代の初めから、「日比谷入江」を埋め立てて「日本橋台地」をつくり、未開地だった江戸の街を全国統一の拠点へと作り変えて行きました。

江戸時代の一等地は「日本橋」でした。「銀座」はそんな日本橋の盛況につられるような形で町人街として整備されて発展を遂げましたが、1612年(慶長17年)、静岡県の駿府から「銀座役所」が移転されたことが、この地域の躍進に大きく影響しました。
銀座は銀貨幣を鋳造する場所ですが、当時は「新両替町」と呼ばれており、「銀座」の地名になったのは明治に入ってからのことです。



因みに金を鋳造した金座「両替町」と呼ばれ現在の日本銀行の場所にありました。
「銀座役所」があった場所は、現在、銀座2丁目にある「ティファニー銀座ビル」の位置で、ビルの前には「銀座発祥の地(銀座役所跡)」の石碑があります。


銀座が置かれてからは、幕府御用達の技術職人がこの辺に集まり、日用品や武具を作る職人などもこの地に居を構えましたので、「職人の町」としての側面が強く、日本橋や京橋よりも、街の賑わいは劣っていたようです。


<明治時代> 
「銀座煉瓦街」は西洋文明の窓口
~大火が起こる度に、街の機能がグレードアップした江戸(東京)の街~



銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869年(明治2年)と1872年(明治5年)に起こった2度の大火でした。特に1872年の銀座大火は、銀座一帯が焼失するという大規模なものでした。そして、当時の東京府知事主導のもと、大規模な区画整理とイギリス人のトーマス・ウォートルス設計による西洋風近代都市様式の「銀座煉瓦街」の建設が行われました。


この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化することと、同年秋に開業予定だった横浜~東京間を結ぶ鉄道の終点「新橋駅」と、当時の東日本経済の中心地であった「日本橋」の間に位置する「銀座」文明開化の象徴する街にしたいとの思惑があったようです。


モデルはロンドンリージェント・ストリートで、京橋から新橋を結ぶ銀座通りの約1.8kmは車道と歩道に分離されました。

舗装された車道の両脇の歩道部分には煉瓦が敷かれ、街路樹やガス燈、雨の日でも傘を差さずに歩ける片側式アーケードも造られた「煉瓦街」は、1877年(明治10年)に全街区の建設が完了
しました。

店舗の顔は 「暖簾」から
「ショーウインドー」

東京の名所として挙げられ、注目を浴びた「銀座煉瓦街」ですが、建設当初は意外と人気がなく、物件は空きが目立っていたようです。
それは、江戸時代からの老舗は、相変わらず日本橋で商売をしていたためで、銀座に店舗や事務所を構えるのは、新興の舶来ショップが中心でした。


ただ、「銀座煉瓦街」は商売のやり方を変えました。日本橋の老舗は、必要に応じて店の奥から商品を持ってくる「座売り」スタイルだったのに対し、銀座の店舗は、ショーウインドーに商品を陳列して売る「立ち売り」スタイルで商売を展開しました。
これにより、お店の顔が、「暖簾」から「ショーウインドー」へと変わりました。
そして、「ウインドーショッピング」が楽しめるようになり、お金がなくても、雨が降っても、銀座で過ごす人たちが現れ、明治の後半には「銀ブラ」という言葉も誕生しました。


当時の銀座のもう一つ特徴は、近くに日本橋があったため、商業面では人気がなかったその場所に、現在の朝日・毎日・読売の各新聞社が会社を立ち上げて、進出したことです。その後、大小様々な新聞社(特に地方)が銀座に集結し、その数が百を超えたと言われています。


銀座という新しい土地に腰を据えた新聞社に続き、雑誌社や関連する印刷所、広告会社などが進出したことにより、銀座は一大情報発信基地として発展し、銀座の街のアピールに一役買いました。


そんな銀座に注目して出店を進めたのは、「勧工場(かんこば)」という店舗です。「勧工場」とは、今でいう百貨店あるいはテナント商業ビルのようなもので、一間半(約2.7m)ほどの通路の両側に、洋服、和洋小間物、陶器、書籍、おもちゃ、など多数の商品が陳列販売されており、買い物が一カ所で足りる施設でした。


第1号店は、1878年(明治11年)千代田区麹町の「東京府立第一勧工場」で、1902年(明治35年)頃には銀座通りに7軒の勧工場がありました。

なかでも、1899年(明治32年)に新橋駅近くの銀座8丁目に開業した「帝国博品館勧工場」が集大成と言われ、その場所には、現在「博品館TOY PARK」が営業しています。



<食文化> 
銀座で生まれた初めての「味」

誰もが親しんだあの「お馴染みの味」

発祥の地は「銀座」でした


■「あんぱん」
1874年(明治7年)、「文英堂(現:木村屋総本店)」が、パン生地をイースト菌ではなく米と麴で培養した酒の酵母でつくり、和菓子の「あん」を組み合わせた「あんぱん」の販売を銀座ではじめました。

■「ポークカツレツ」
1899年(明治32年)、「煉瓦亭」初代オーナーが豚肉をフライのように揚げ、付け合わせにキャベツの千切り、そしてウスターソースで食べる「ポークカツレツ」を身近な「洋食」として日本人向けにアレンジしました。


■「アイスクリームソーダ」
1902年(明治35年)、銀座で調剤薬局を営んでいた「資生堂」は店舗内に、日本で初めてのソーダ水や当時はまだ珍しかったアイスクリームの製造と販売を行う、「ソーダファウンテン」(現:資生堂パーラー)を併設しました。ここで生まれたのが「アイスクリームソーダ」です。

■「フルーツポンチ」
明治に創業の果物専門店「銀座千疋屋」が日本初のフルーツパーラーを始めてから、10年後の1923年(大正12年)、冬場のメニューとして登場したのが、「フルーツポンチ」です。カットした果物をカクテルグラスに入れ、体が温まるようにとリキュールを少し加えたもので、果物の新しい味わい方の誕生でした。

<大正・昭和期の戦前> 
破壊と再生を経て大きく発展 

主役は「勧工場」から「百貨店」へ

銀座の象徴だった煉瓦街は、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で甚大な被害を受け、この時に銀座から煉瓦街は姿を消しました。
ただ、全ての資産が焼失した木造一戸建てとは違い、建物の1階部分が残った煉瓦街は、さほど復興に時間が掛からずに日本一の商業地として復活します。


震災によって「帝国博品館勧工場」も全焼しましたので、繫華街の主役だった勧工場に変わって次に登場したのは、百貨店です。



1924年(大正13年) 「松坂屋」は、下足預りをやめて全館土足で入場とし、新橋と有楽町駅から往復無料バスを運行、屋上には動物園があるという画期的なものでした。

その後、1925年(大正14年)には 「松屋」、1930年(昭和5年)には 「三越」と百貨店の開業が続きました。

既存の専門店は、三大百貨店の大規模開発の影響を心配したようですが、専門店が競争力を高め、「百貨店と専門店との共存共栄」という銀座の特徴の一つがこの時生まれました。


また、現在の「阪急阪神東宝グループ」を創設した小林一三氏によって、日比谷有楽町に映画館や劇場が開発されたのもこの頃であり、1934年(昭和9年)には、浅草~上野間から延伸した地下鉄銀座線銀座・新橋まで開通し、当時の繁華街の頂点であった浅草のお客様が銀座にも流れるようになりました。


土地の評価額を見ても、1878年(明治11年)の銀座地価は、
日本橋の1/3~1/4
でしたが、1934年(昭和9年)には、日本橋を抜いて
第一位となっています。

こうして、銀座は押しも押されもせぬ、日本一の街と言われるようになりました。

銀座は西洋文明を導入し、西洋文化の発信地へ

また、「銀座のネオン街」といえば戦後間もなくの風景と思われますが、「銀座」では昭和初期にすでに誕生しており、新たな象徴となっていました。いわゆる「カフェー」の流行で、銀座通りが夜の街と化したのです。カフェーと言っても喫茶店ではなく、酒類の取り扱いもある今で言うとバーやクラブのようなものです。


最先端のファッションに身を包み、「モボ(モダンボーイ)」「モガ(モダンガール)」と呼ばれた若い男女が、銀座の街を闊歩する姿が見られたのもこの時期です。
服飾文化においても銀座は、西洋ファッションを紹介する場となりました。前述の「資生堂」は化粧品を取り扱い、ファッション文化の発展に大きく貢献しました。


その後、日本は戦時下に置かれ、銀座の華やぎも少しずつ影をひそめました。
1945年(昭和20年)に入り、東京は3月、4月、5月と爆撃機での空襲を受け、銀座も、7丁目、8丁目と6丁目の一部を除いて壊滅的な被害を受けました。


みえてきたこと。わかったこと。

銀座の特徴は

街区割が明確であり、表通り・横丁・裏通りというコントラストが面白く、街路地を歩くことで、各々の店の味わいに触れる事が出来、元気が出る街です。


銀ブラの楽しみを演出してくれるのは、明治以来の歴史を築いて来た名店(専門店)や百貨店の巧みな配置であり、ディスプレイされたショーウインドーが、お客様の歩く速度に合わせて、移り変わって行くことかも知れません。


銀座は西洋文明を導入し、西洋文化の発信地として日本文化の近代化に大きな役割を果たしました。
その実例として、前述の「木村屋」は酒種のパンを、「和光(服部時計店)」は西洋発祥の時計の高品質化を重ねつつ銀座のランドマークを築き、「資生堂」は調剤薬局から出発し、パーラー、そして化粧品を通じてセンスの良いライフスタイルの文化を提供していることを知りました。


他の多くの名店も、その創意工夫によって商品を革新し、日本伝統の一流の匠による技で、銀座の街を特色づけています。


そして、これらの名店(専門店)の要所ごとに、百貨店が配置されていますが、
商業ゾーンだけではなく、銀座通りとクロスする晴海通りの両端に位置する、
東銀座には歌舞伎座、有楽町・日比谷には劇場、映画館などのエンタメゾーン、宿泊機能のホテルも徒歩圏内にあり、非常にスケールの大きい、内容豊かな繁華街となっています。


さいごに

銀座が常に時代の最先端を行く街であり続けているのは、
破壊と再生を繰り返しながらも、多くの名店が「伝統や品格を重んじる」一方で、
商業の街としての「先進性とフットワークの良さ」を併せ持ち、「銀座らしさ」を保ち続けているからではないでしょうか?

終戦直後は大きな困窮の中からスタートとなりましたが、見事に再生しました。戦後の復興期、高度成長期、オイルショック、バブル期そしてバブル崩壊を経て、近年の海外ブランドの進出など、街の変貌には目を見張るものがあります。
続きは次回ご報告します。





最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回もよろしくお願いいたします。



馬場 英喜
馬場 英喜
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