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関東大震災からの復活、日本橋の変遷と未来


ワンスアラウンド株式会社 顧問
馬場 英喜

【Market Report  vol.36】

日本のまち(街)づくりの原点「日本橋」
~100年前に経験した「関東大震災」を乗り越え、
変化し続ける「日本橋」~

昨年後半から、国内の街づくりについて、首都圏では拠点ターミナルを中心とした池袋・新宿・渋谷を、地方中核都市では北海道の行政の中心として人為的につくられ、戦後は道内経済の中心地となり、冬季五輪を機に、国際的な認知を得て大きく発展した札幌市について報告しました。
そして今回は、江戸時代から明治・大正・昭和・平成を経て、現在に受け継がれている日本の「街(まち)」の原点である東京「日本橋」について、2回に分けて報告します。



 江戸時代から日本の交通網の拠点として発展

1603年の江戸開府とともに、全国を網羅する五街道「東海道」、「日光街道」、「奥州街道」、「中山道」、「甲州街道」の整備が着手され、その起点となったのが、「日本橋」です。「日本橋」には、現在も日本の道路網の起点となる「道路元標」があり、国道1号、国道4号、国道17号、国道20号など、7本の国道の起点となっています。 ​

最初に架けられた日本橋は木造のため、火災によって幾度となく架け替えられ、現在の日本橋は20代目にあたりますが、1911年(明治44年)に架けられた石造二連アーチ橋は、1999年(平成11年)に、橋としては初めて、国の「重要文化財」に指定されています。

「日本橋」は、五街道の起点となるだけではなく、水上交通や町人街の発展により、人々の往来で賑わい、人・情報・物資の集積が絶えず、日本経済の中心となりました。

様々な物資が集まり、人々が行き交う 「商業の街・日本橋」

徳川家康は、江戸に入府すると、江戸城や城下町の建設と、家臣などの生活を支えるため、旧領地(三河、遠江・駿河)や、京都・伏見・堺などから商人や職人を江戸へ招きましたが、すでに全国で商業的に活躍していた「伊勢商人」「近江商人」なども進出し、「日本橋」は商人の街としても発展しました。

日本橋が架かる東側の川沿いには、舟運の拠点となる魚河岸(魚市場)が設けられ、全国から様々な物資が集まり、江戸の暮らしを支える場として重要な役割を果たしました。海辺に面した土地には、運河や河岸が多数設けられ、問屋の倉庫が白壁を見せて並ぶ景色は、錦絵にも数多く見ることが出来ます。

その「日本橋」には現在も続く老舗店が、同時代に数多く創業していますが、当時の盛り上がりや今なお続く老舗店の登場などについて紹介します。

江戸・日本橋における「近江商人と伊勢商人」の足跡
<今も残る日本橋南詰めの交差点周辺のビル>

「柳屋ビルディング」
1615年に漢方医が徳川家康からこの地を賜り、「紅、香油、おしろい」などを販売する「紅屋」を創業。その後「柳屋」として継承されますが、江戸に進出した近江国蒲生郡出身の近江商人「外池(といけ)本家」が柳屋油店を買収して、現在まで継承しています。
因みに、大正時代から製造販売された「柳屋ポマード」は、筆者の父親世代の男性の多くが利用して一世を風靡するなど、戦後まで続く柳屋を代表する商品でした。
1964年の東京オリンピックが開催された年に完成した建物は、当時のままの姿で日本橋の交差点を見守っています。


「日本橋西川」
現在の近江八幡市で生まれた近江商人によって1566年に創業された「西川は、1615年に日本橋に店舗を構えて以来400年に亘って近江商人の精神を受け継いでいる企業です。
行商からスタートした西川は、時代に併せて商売の形態を変え、当初の蚊帳問屋から商売を広げ、明治時代には布団の販売を開始。現在は「寝具専門店」へと変わっています。
3年前、405年ぶりに、店舗をコレド日本橋の地下に移転し、跡地は現在、「日本橋一丁目中地区市街地再開発事業」として工事中です。



<江戸時代の「大店(おおだな)呉服店」から百貨店へ>

「越後屋」→「三井呉服店」→「三越百貨店」

江戸への進出をうかがっていた地方の豪商のなかで、日本橋に照準を合わせた伊勢松坂(三重県松坂市)の商人三井高利は、1673年日本橋に呉服の「越後屋」を創業し、「店前(たなさき)現金売り」「現金掛け値なし」「反物切り売り可」の新商法で、現在の「三越百貨店」の基礎を築きました。
また、現金決済のために併設した両替商「越後屋三井両替店」は、現在の「三井住友銀行」のルーツとなっています。

先人達が残した教えと精神は、今も三井グループ各社へと受け継がれていますが、本拠地である日本橋室町では、2004年「コレド日本橋」開業以降、「コレド室町1」「コレド室町2・3」「日本橋三井タワー」「三井記念美術館」「コレド室町テラス」等が開業。ソフトとハードが融合した街づくりを三井不動産主導で推進しています。


「白木屋」→「白木屋デパート」→「東急百貨店」→「コレド日本橋」

初代大村彦太郎は、近江の材木商「白木屋」として独立し、その後江戸へ出る意欲が強く、1662年日本橋に小間物商の「白木屋」を開業。
その後、江戸の町人文化の開花に合わせて呉服を中心に販売品目を広げ、越後屋(現・三越)、大丸屋(現・大丸)と並んで、江戸三大呉服店の一つに数えられる大店に成長しました。


明治中頃には、店舗の趣はそのままに洋服店へと変化を遂げ、その後1903年に「白木屋デパート」、1967年に「日本橋東急」、そして2004年に「コレド日本橋」へと姿を変えています。
「COREDO(コレド)」の名称の由来は、「CORE(核)+EDO(江戸)」と言われ、「江戸の中心」への進出に執念を燃やした白木屋初代大村彦太郎の熱い思いが感じ取れます。


「高島屋」 (昭和初期に日本橋に開店)

高島屋」の創業は、初代・飯田新七が1831年(天保2年)に京都で古着木綿商を開いたことに始まります。屋号は、義父の出身地「近江国の高島郡(現:高島市)」から取られました。


江戸末期には呉服商となり、貿易にも参入。1900年(明治33年)に東京に進出し、1933年(昭和8年)現在地に百貨店「高島屋東京店」を開店。
東京店の建物は、2009年には百貨店建築物としては初めて国の重要文化財に指定されています。
2012年には、「東京店」から「日本橋店」へ改称し、2014年より一帯の再開発が実施され、2018年には、4館からなる「日本橋高島屋S.C.」を開業しています。



前述のように、「三井越後屋呉服店」「白木屋」などは、後に百貨店の老舗と
して江戸時代の「日本橋」で創業しましたが、他にも、日本伝統の「食」や「技」を
伝える老舗も同時代に数多く創業し、現在もなお魅力的な商品や技術を提供し
ています。

「小津和紙」
(和紙の老舗)
1653年創業
伊勢・松坂
「にんべん」
(鰹節の老舗) 
1699年創業
伊勢・四日市
「八木長本店」
(乾物の老舗)
1737年創業
伊勢商人
「日本橋木屋」
(刃物の老舗) 
1792年創業
伊勢・桑名
「千疋屋総本店」
(高級フルーツ)
1834年創業
武蔵の国
「山本海苔店」
(海苔の老舗) 
1849年創業
日本橋室町

江戸中期の1800年頃には、江戸の人口は120万人に達し、面積・人口ともに世界最大規模のひとつとされていました。同時代のパリの人口が約50万人、ロンドンは約90万人と言われていますので、どれだけ盛況だったかがわかります。

みえてきたこと。わかったこと。

■「伊勢商人と近江商人」が中心となり、日本橋商業エリアを造り上げた

「日本橋高島屋S.C.」開発準備当時、高島屋の方から「日本橋」の商業エリアが造られた経緯について、橋の北側ゾーン(神田側)「伊勢商人」、南側ゾーン(銀座側)「近江商人」が集められたと聞き、気になっていましたが、今回その確認をすることが出来ました。

橋の北側は、伊勢出身の「越後屋」が原点となって、現在の「三井グループ」に繋がっており、南側は、近江出身の「柳屋ビル」「日本橋西川」「白木屋」「高島屋」等の開業に繋がり、その後時代に対応した「街づくり」をしていることがわかりました。

その歴史は、日本橋界隈の一部を切り取っても、時代の変遷をはっきり知ることができます。下図(左側)にみる歌川広重の錦絵には、現在の中央通り(旧・日本橋通り)の右手に「紺色の暖簾」を下げた呉服・小間物を扱う「白木屋」がありますが、明治中期になると店舗の趣はそのままに洋品店へと変化を遂げ、その後「白木屋百貨店」から「東急百貨店」へ、そして現在の「コレド日本橋」へと姿を変えているのです。


■大きな天災を乗り越え、変化し続けた「日本橋」

100年前に経験した「関東大震災」

「日本橋」は、商業地が造られて以降、「日本銀行」「東京証券取引所」などの金融センターも加わり、オフィス街としても発展しましたが、大正、昭和期では、「関東大震災」「東京大空襲」といった歴史的天災や事件に遭遇しました。

なかでも、「関東大震災」(マグニチュード7.9)では、建物の倒壊よりも直後に発生した火災による被害が大きかったと言われており、特に日本橋神田をはじめ、現在の中央区・江東区・墨田区が甚大な被害を受け、死者・行方不明者が10万5千人を超えた未曽有の災害となりました。
この「関東大震災」は、1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒に発生しましたが、今年で100年目という節目の年を迎えました。


さいごに ―新たな日本橋の景観と街づくりに向けて―

激しい時代変化の中、「日本橋」は約400年前から日本の中心として成長と衰退を繰り返し、復活を遂げて大切にされてきましたが、これからも再開発など都市インフラの再整備を実施し、更なる進化をし続けながら、ずっと日本の中心としてあり続けるのではないでしょうか?

ただ、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催に向けて、日本橋上空に「首都高速道路(通称:首都高)」が開通したことで、上空が「首都高」に覆われる景観となり、街の魅力が損なわれる結果となりました。

60年が経過した今、老朽化した「首都高」を地震などの災害に強い道路に造り変えることもありますが、東京の真ん中に位置する「日本橋」の景観を取り戻すべく、「首都高」を地下化する事業も動き始めており、併せて周辺でも大規模な再開発計画が進められています。
これについては、次回報告します。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回もよろしくお願いいたします。

馬場 英喜
馬場 英喜
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