明治期から現代までの札幌のまちづくりと商業地の変化
まちを変える「北海道新幹線」延伸
~開拓の歴史は「道南」から始まった~
昨年後半に東京の中心地である「新宿」「渋谷」について、 ターミナルを基点として発展した街づくりの歴史と、 未来に向けた新たなまちづくり計画についての報告しましたが、 北海道は、アイヌの人たちが住み「蝦夷地」と呼ばれ、 室町時代の1400年代半ばに「和人」が渡り住み、道南の「函館(当時は箱館)」、 「江差」「松前」の3港が発展しました。
今回から2回に分けて、道南から人口が増えていったと言われる 北海道の政治・経済の中心となっている札幌のまちづくりの歴史と、 札幌への新幹線延伸を控えた2030年を目途とした新たな計画について報告します。
明治期に人為的に作られた都市「札幌」
北海道の札幌市は日本最北の政令都市であり、 現在は、全国の市の中でも横浜市・大阪市・名古屋市に次ぐ 4番目の人口(1,958千人)を有しており、北海道全体の人口(5,135千人)の 約4割弱を占める大都市圏を構成していますが、 札幌市の人口が、 かつては道内で「3番目」だったことは意外と知られていませんし、 一方、函館市が 道内最大の人口を誇っていたことも、余り知られていません。
明治新政府は、1869年(明治2年)に「蝦夷地」を「北海道」と改称してから、蝦夷地時代の中心である函館が南に偏在すると考え、函館からみたら少し奥地ですが、中央にある札幌に開拓使を置き、1871年(明治4年)から札幌市街地の区画割を実施しました。
札幌市街地の特徴は防火帯としての大通りによって南北に大きく二分し、北地区は本府・学校・病院・官舎・官営諸工場を中心とする官地。
南地区は民地として商業地が形成され、京都の町づくりを参考に碁盤目状の構造となりました。
1873年に「札幌本庁舎(本府)」が完成されましたが、 札幌の中心部は、計画的に建設された国内では珍しい都市です。
その後、1875年(明治8年)から始まった屯田兵制度による集団移住により、 北海道の農地開拓は飛躍的に加速しました。
1880年(明治13年)には、道内最初の鉄道が小樽方面から 札幌市街地区画の東西ラインに合うように敷設され、 札幌駅が開設されたことで、駅から南下した駅前通りが 南北の中心軸と捉えられるようになりました。
北海道内の人口推移
1889年(明治22年)当時、道内に市はなく、人口は函館区が道内1位で 52,909人、札幌区は16,876人でした。 1位 函館区144,749人 港湾都市・本州と接続 1922年には、道内の6区が一斉に市制を施行し、 札幌市、旭川市、函館市、釧路市、室蘭市、小樽市となりましたが、 札幌市の人口は、 1922年(大正11年)には第2位、1936年(昭和11年)には第1位となっています。 札幌市は、 開拓時代から第二次大戦までは、行政都市としての性格が強く、 終戦の1945年(昭和20年)の人口は22万人に達していましたが、 1位札幌市313,850人、 2位函館市228,994人 その後、旭川市の近隣合併が続き、 1960年(昭和35年)に小樽市を抜いて3位、1983年(昭和58年)には函館市を抜いて2位となってからは、 札幌市、旭川市、函館市の順位は、現在まで固定されています。 |
<百貨店>
1912年(明治45年)に北海道内初の百貨店「五番館」が誕生し、 1916年(大正5年)に「丸井今井百貨店」、 1932年(昭和7年)には東京から「三越百貨店」が札幌に進出し、 昭和初期には三つの百貨店が揃い踏みして、「三大デパート」時代の幕が開きました。
札幌市の人口は、1970年(昭和45年)に国内で8番目となる100万人都市となり、 冬季五輪が開催された1972年に、政令都市に指定されましたが、
1974年(昭和49年)、すすきの地区に「松坂屋」、 駅前地区には1973年(昭和48年)に「さっぽろ東急百貨店」、 1978年(昭和58年)に「札幌そごう」など、 次々と新しい百貨店が札幌に進出しました。
<専門店ビル・地下街・ファッションビル>
冬季五輪を控えた1971年(昭和46年)、大通り地区に 「4丁目プラザ」、 地下街の「オーロラタウン・ポールタウン」が開業。
さらに1974年に「丸井マルサ」、 翌75年には「札幌パルコ」が開業し、 「南1・西4」交差点を中心とした大通り地区周辺が一大商業集積地となりました。
一方、札幌駅周辺地区では、1987年に国鉄が民営化されて以降、 「駅」のコンセプトが大きく変わり、JR北海道は、 多様なお客様のニーズに対応する拠点としての機能を重視し、駅中心に多角的な事業展開を始めました。
1981年から10年かけて札幌駅周辺の鉄道高架化が実現し、1989年には新駅舎とともに、 高架下にJR発足後初の駅ビル「札幌パセオ」を開業。 その後、1999年には、駅南口再開発により、駅前広場と新地下街「アピア」がリニューアル開業し、 締めくくりとして、2003年に、複合商業施設「JRタワー」が完成。 「札幌ステラプレイス」「大丸百貨店」が開業しました。
札幌中心部の商業地の変化
―2003年開業のJRタワーが構造変化を起こす―
明治初期のまちづくりにおいて、大通りを境に南北でエリアを大きく二分された札幌中心部は、 商業地区も「札幌駅周辺地区」と「大通り周辺地区」の二大商業地域が独立した関係になっていました。
1990年代までは、「大通り周辺地区」が優位性を保っていましたが、 90年代に入ってからの札幌駅の整備にともない、中心が「駅周辺地区」へと少しずつ移動し始め、 2003年の「JRタワー開業」によって、「大通り周辺地区」と「駅前周辺地区」の ポジションに大きな変化が生まれ始めました。
JRタワーの来場者数の年間目標は1900万人でしたが、開業後半年間で、 2276万人と大幅に突破。開業後の札幌駅(JR及び市営地下鉄)の乗降客数も大幅にアップしました。
開業前年の2002年と開業5年後の2008年の乗降客数比較では、 14.5%増(内訳:JR8.6%増、市営地下鉄21.1%増)となっており、 市営地下鉄の乗降客数は、「大通り」と「さっぽろ駅」が逆転しています。
しかし、そんな環境変化の中で、大通り地区と駅前周辺地区の売上高合計は、 2004年と2019年を比較すると、88%まで下降しています。
これは、2000年に入ってから、イオングループやセブン&アイに代表される商業施設が、 札幌市郊外への出店を強化したことが大きな要因であり、 売り上げ競争は「駅前vs大通り」から「札幌市中心部vs郊外」の構図となりました。
そこで、駅前と大通りの一体化が求められてきましたが、その一環として、 寒い期間に地上を歩くハンデを克服した地下歩道「札幌駅前通地下歩行空間(略:チ・カ・ホ)」が 2011年に完成し、「駅前広場⇔大通西3丁目(全長520m)」が地下で繋がりました。
開通後は、地上・地下の歩行者数が大幅に増え、「駅前と大通り間との回遊性」が高まりました。
見えてきたこと。わかったこと。
現在の日本国内の各街(まち)は、江戸時代に形成された城下町を引き継いでいますが、 北海道には、江戸時代の「城を中心とした街=城下町」がなかったので、 北海道だけは、街のつくられ方が違っていました。
江戸時代から明治初期までは、函館・小樽という 港町を中心に発展しましたが、新政府が道内の中央にある札幌に 「本庁舎(本府)」を置いたことにより、
戦後は、小樽に集中していた卸売業者や金融機関、 道外企業の支店の多くが札幌に移転し、 札幌が「道内経済の中心地」となりました。
1964年(昭和39年)東京オリンピックでの「新幹線」もそうでしたが、 札幌冬季五輪での「地下鉄」の開通は、大量の人を運ぶ交通手段として愛用され、 「都市と都市」あるいは「都市と郊外」を結ぶとともに、 それに通じる「地下街」を生み出し、街の発展に大きく貢献したことがわかりました。
さいごに ―まちを変えるチャンスがまだ続く―
国内において、「まちが変化する」事例をみると、
■交通インフラ整備や行政指導による再開発等による見直し
■インバウンドに象徴されるようなグローバリズム化の推進
■ライフスタイルの変化等の機会を捉えての取り組み
など、数多くの事例があります。
道内第一の都市・札幌市は、150年前の明治初期に人為的につくられた行政のまちですが、 戦後は道内経済の中心地となり、1950年(73年前)には、 人口も30万を超え、1970年には100万都市となりました。
そして今から50年前の冬季五輪開催がターニングポイントとなり、 交通インフラの整備を始め、国際的な認知を得て大きく発展して政令都市となった全国でも珍しい都市です。
北海道は、現在も自然豊かな観光資源に恵まれ、国内外からの集客のアドバンテージを有しています。そんな中で、
■2030年には札幌にやって来る予定の「北海道新幹線」
■2030年の開催誘致を目指している2度目の「冬季オリンピック」により、
札幌がもう一度大きく変わろうとしています。
具体的には、駅周辺地区では、8月閉館予定の「エスタ」の建て替え、 「西武百貨店」跡地の開発、 大通り地区では「4丁目プラザ」跡地と、 5月で閉館する隣接の「ピヴォ」が新しい商業施設となる予定となっており、 2030年代に向けて再開発計画が進行してます。
北海道の中心である札幌のこれからについては、次回報告したいと思います。